[著 JPP]
大久保嘉人の移籍が決まりましたね。まずは良かったです。
ウォルフスブルグでは、長谷部とチームメートになりますが、クラブが日本人目当てで契約したのではないことは、大体分かります。その移籍金の交渉に当たっては、神戸とのタフな「ネゴシエーション」があったと聞きます。その額から言って、またマガト監督が実際に欲しいとクラブに談判していたからこその、移籍の成功だったと思います。
マガト監督が大久保を欲しいと考えたのは、MFも出来るということを念頭においてのことだそうです。大久保にとっては2度目の海外挑戦、本人も失敗は出来ないという強い気持ちをもっていることでしょうから、きっと成功すると思います。
多くの選手の場合、移籍は「現実」として、サッカー選手として生きていくために、その本意、不本意にかかわらず行われるものですが、日本代表でその地位を確立しつつある大久保にとっては、「夢」もかかわった「挑戦」と言えます。
この場合、本人にも選択の自由があり、残留してクラブでレギュラーとして地位を保って日本代表で使ってもらいやすい状態をキープするのか、あえてステップアップを狙って海外へ挑戦するのかは、自分の描く将来像である、「夢」(少なくとも大久保は「世界的な選手になる」と言う野心を抱いて移籍したと思います)を追う気持ちの多寡によると思います。
「夢」を追う部分があるため、こうした移籍のケースは、いろいろと障害が発生しやすいのです。また当人がすでに有名選手であるため、いろいろな利権であるとか名声であるとか、当人の周辺がいろいろと「画策」に動いて当人を困難に陥れる、と言ったケースも目立ちます。今のところ日本人選手では、こうしたケースは少ないと思いますが。
中村俊輔の場合、その移籍はかなり困難なものだったようです。サッカーマガジン12/30号に掲載されている記事を読むと、彼のように「夢」を大きく追う気持ちが強いために、障害がたくさんあった事が記されています。
サッカーマガジン12/30号の掲載内容から、多くを抜粋いたしますが、サッカーマガジンからの引用であることを事後報告ながら了承していただきたいのは、今まで知り得なかったたくさんのことがここには書かれているからです。
2002年中村俊輔は、セリエA,イタリアのレッジーナへ移籍しました。
マリノスがつけた条件は以下の三つです。(サッカーマガジン12/30日号より引用)
・選手として高い評価をしてくれること
・その評価としてクラブの納得する移籍金が発生すること
・レンタルではなく、完全移籍によるオファーを提示すること
でした。御存知の通り、2002年のW杯のメンバーから俊輔は洩れています。当然国際的ネームバリューも上がらず、移籍は困難なものになりました。
以下サッカーマガジン12/30日号より引用
「だが、かつて中田英寿氏の在籍していたイタリア・セリエAのペルージャが、この条件を満たすオファーを提示してきた。だが、横浜FMはペルージャとの最終交渉が行なわれる直前に、レッジーナのオファーを受ける。それは『半年間のレンタル移籍。その後買い取りのオプション』と言う内容だった。」
マリノス側としては、スター選手の流出に当たって、ペルージャのオファーより、レッジーナのオファーの方が優先したようです。これはペルージャのオファーを受けるなら、半年間マリノスでプレーしてから移籍、レッジーナなら即移籍という条件を提示したことで分かります。
マリノスは躊躇したのですね。完全移籍によるオファーを望みながらも、もし活躍できずに移籍が失敗することの方を恐れたというべきでしょう。もし海外で俊輔が活躍できなかったとしても、日本に戻ってくれば再び活躍できる、そんな皮算用もあったと思われます。
すぐにでも海外に行きたかった俊輔は、結局レッジーナのオファーを承諾。その後の活躍は知られているところですが、レッジーナの方は「日本人だから」と言う感じで、サッカーマガジンによれば、幹部の中には俊輔のポジションすら把握していない人間がいたということです。
2005年中村俊輔は、レッジーナからスコットランドの名門、セルティックへ移籍します。
以下サッカーマガジン12/30日号より引用
「クラブの経営悪化から緊急に資金調達の必要に迫られたレッジーナは選手側の意向を無視し、もっとも提示額の高いセルティックへの移籍を一方的に通達した。その際、レッジーナのバスクアーレ・フォーティ会長はこう言い放ったという。
『セルティックへ生きたくないというのであれば、それでも構わない。ただし、その場合は他のクラブへの移籍に応じないし、今後は全く試合に出られないかもしれない』」
ほとんど脅迫めいていますね。もともとは俊輔側が「出る」意志を示したから起こったことだともいえますが、レッジーナ側の「逞しさ」には嘆きと失笑を禁じ得ません。もともと最初のオファーからして「誠意」の存在するものだったか怪しくなってきます。これがヨーロッパで実際にヨーロッパ以外の選手に対するクラブの態度としては、別段珍しいものではないといえましょう。私の偏見かもしれませんが、ヨーロッパの一部のクラブの中には、人種や国家、地域に対する「差別」がどこかにひそんでいるところも少なくありません。
「干される」事を危惧した俊輔側が移籍を即断したことは言うまでもありません。
セルティックでは、ゴードン・ストラカン監督のもと、監督自らの意向により、セルティックのブリティッシュなスタイルを曲げてまでも、「司令塔」の地位を保証されたことは、「不幸中の幸い」と言えましょう。
しかし、俊輔には、「いつかは日本で、マリノスでプレーしたい」と言う希望があり、この冬にもそれが実現するのではないかという話が出たのですが、この金融不況でその話が雲霧消散したことは知られています。また、俊輔の意向通りにはいかなかったのです。
なお、サッカーマガジン12/30日号の記事は、
「なぜ、俊輔の復帰は白紙になったのか? 横浜FMの『無策』が招いた悲劇」
と言うタイトルで、マリノス側の経営の問題、強化方針の問題についてきちんと書かれています。引用する形で、中村俊輔の移籍に関してのみここでは触れましたが、マリノス自体の問題点、と言う意味では、サッカーマガジン12/30号を購読されることをお奨めします。
[著 JPP]
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